昭和49年01月23日 朝の御理解



 御理解 第21節
 「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中にあっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」

 御神訓 一、「信心する人の真の神徳を知らぬこと。」

 信心を頂いておりましても、神様の御神徳を知らない所から、おかげを落す。折角信心して、おかげを頂いておるおかげを落してしまう事になります。御神徳を分からせて貰うと、おかげを落すと言う事がありません。いつも謙虚であられるからだと思うです。信心せよ。信心とはわが心が神に向かうのを信心というのじゃ。本当に自分の心は神様へ向ききっておる様に思うておって往々にして。
 神様を取り外して居る様な事があります。本当に残念な事です。信心はそういう意味合いで本当に微妙な事だ、微妙なものだと思います。昨夜の御祈念の後、昨日御祈念を幹三郎が当番でしたから、御祈念をしておりました。そして後の教話をおかげ頂いておりました。ここに座っておるのですから、私は耳が遠いのでよくは聞こえませんけれども、怠慢という事。今度の寒修行に入って、特に怠慢と言う事に心を遣わせて頂いて、日々こうやって神様の御用をさせて頂いておるがです。
 一日を振り返ってみると、あれも怠慢であった、これも怠慢であったと言う事に気付かせて頂いて、本当に相すまん事だというふうに言っております。あれも怠慢であった、これも怠慢であったと言う事が、心掛けておれば、一つも怠慢にならない様な事が怠慢になっておるです。朝の三時過ぎには起きます。三時半に私と一緒に出て参ります。そして朝の御用も、御祈念を終わってそれから皆、修行生の方達が裏の方へ下がっておっても、自分は事務所で御用を頂いております。
 本当に頼りになるなと私も思う位です。そして久富さんのお初穂整理のお手伝いをさせて貰います。夜は御祈念なら御祈念教話でも、ちゃんと当番になれば、受け持っておかげを頂いております。まだあの位の若さというが、今度、成年式を終えましたのですから、もう一人前なんです。だから神様は一人前として見て下さってある。成程昨日のお話を頂いておって、信心ちゃ有り難いもんだな、ああいうふうに謙虚であれば、自分の怠慢なことが気づかせて頂くと言う事は有り難いなぁと、私も思うて聞きよった。
 そしたら御神眼に頂きますのが、彼が横寝をしておる。こうやって腕枕で。そして足の先で、何かをこうこやって扱っている所を頂いた。こうやって横寝をしとるのですよね。自分の手枕で。そして足の先でこうこやって何かをこうやって扱ってる。如何にも信心の様であり、如何にも一日を締めくくった時に、あれも怠慢であった是も怠慢であったと気がついて、相済まんと云っておる。
 そんならばその相済まんと云う事を改めたら良い。それが本当に気がつかなかったならばってん、ただ自分でもああこげな事は怠慢だと思いながら、日々を午前中は立派であっても、午後はそういう風であると言う事であるならば、自分で知っておる。自分で気がついておる。私はそれを頂いてははぁ幹三郎も、神様が一人前で扱いよんなさるなぁと云うふうな感じと同時に、自分で怠慢と気がついておる。それで私は良いように思うておった。あの若さで、怠慢であると言う事に気がついてお詫びをしておる。
 それで良いようにと思うておった。けれども神様からご覧になると、こうやって横寝をしながらそして腕枕で自分の。そして足の先で怠慢を扱っておる。だからです例えばなるほど、自分であれも怠慢であったこれも怠慢であったと気がつく事で、その時点で怠慢という事を知っておる。そんならです例えばあれも怠慢であった、是も怠慢であったと言う事が、どう言う事か私には分かりません。分かりませんけれども、昼寝なら昼寝をしたと致しましょうか。
 そして寝過ごして一時の御祈念にも出て来られなかったと致しましょうか。そういう時にです。神様もう睡うして睡り倒れようごとありますから、神様暫く休ませて頂きますと横寝をするなら横寝をする。私はそれが必要だと思うです。ああこげな事は、怠慢な事は分かっておるばってんだけでしとるから、私は気がつくじゃない。もうその場で怠慢という事は分かってる。けれどそこは人間生身をもっておるのですから、神様済みませんしばらく休ませて下さい。ちょっと眠らせて貰います。
 どうぞ一時の御祈念にはまた起こして下さい。よし起きりきらなくってもその位な心遣いと云うものが、私は信心させて頂く者は大事だと思う。子供子供というとるけれども、子供じゃない。教師の資格も頂いた。おかげで成年の式も終えた。神様はもう一人前の修行生として認めてござる。だから怠慢を怠慢と気づきながら、それを放任しておる。毎日毎日、同じような事が繰り返されておるような事ではならない。そういう時に私が申します様に、わが心が神に向かうというのは、朝から午前中の御用をさせて頂いておる時には、もちろん神様にむかっている事は間違はいがない。
 けれどもその後の、自分で怠慢と気づいておりながら、怠慢な事を毎日繰り返しておると言うとそれは怠慢無礼と言う事になるのじゃないでしょうか。怠慢だけじゃない怠慢無礼である。親の目から見てもです、この若さでこの位神様に向うておる。有難い事だ尊い事だと思っておりましたけれども、是は親の甘い考え方。是はもう少しその辺の所の厳しい信心の修行がなされなければいけないな。
 例えば睡うございますから睡る。いいんですよそれで。だからそこで詫びる気持ちがなからにゃいけん、その謙虚な気持ちが。当然の事の様にして睡る所に、後であれも怠慢あれも御無礼と思い分かってる。分かっている事を毎日繰り返しておる。だから休ませて下さいと。そしてです云うなら殊勝な心掛け。神様一時の御祈念には、どうぞまた目を覚まさせて下さいと言った様なね、願いを持つ位な心掛けがいるです信心には。それが神様へ向かう姿だと思うです。
 午前中の一生懸命の神様への奉仕。それは勿論神様へ向かう。けれども後の午後で、スパッと折角向かったものが、マイナスになってしまいよる。プラスマイナス、プラスマイナスでは同じこと。そこでマイナスになる様な時には、神様にお詫びをすると云うて、そういう心掛け。そして、一時の御祈念に眠り呆けて起きられなかったと致しましょうか。神様どうも済みません。一時の御祈念に御無礼しましたと、その時点で詫びていくような、そういう行き方が、神に向かうと云う事です。
 今日私はそういう意味で、神へ向かうということを聞いて頂いた。私も今日は自分なら、愕然とするようなお夢を頂いた。私が旅に出ておる。それも私の心の中に何と言うですか、云うなら横着な心ですか。もうこの位おかげを頂いておるから、合楽の在り金の全部を懐中にして、そしてどこか旅に出ておる。その旅に出ておると云うのも、日本じゃない、外国の様な感じです。そして汽車に乗って或る駅で降りた。
 降りた所がですカバンを汽車の中に忘れておる。私が全部財産を入れている、そのカバンを忘れておる。もう汽車は行きかかっておる。そこで私が乗っておった所にお客さんが乗っとりますから、私はそこにカバンを忘れとりますから取って下さいと、窓越しに云いよるけれども、どっこい言葉が分からん外国だから。駅員の人が動きかかっておる汽車に乗り込んでおるから、カバンを忘れとりますからお願いいたします。
 私は久留米の合楽の大坪ですち言うて、行きかかっとるとに、私が云いよるけども、さぁそれも通じない。そして行った後の汽車を見送りながら、どうしたもんか是は淋しい事になったぞと思うておる所であった。是が内地か何かなら一寸電話かけちからとか、どこか知った所でお金を借りるとか。さぁ金の借りようもないどこに誰に頼る様子もない。今カバンの中に忘れておったのは、私の全財産であった。この位な事はよかよかと云う様なことが、こういう結果になってしまった。さぁどうしたもんかで目が覚めた。
 四神様のご時代に、中村駒之助と云う、東京歌舞伎の俳優がおりました。その人が旅興行に出て或る興行先で、宇都宮の吊り天井という、新作のお芝居をやっておる時に、上に縄を張って渡っておる様な所に、丁度客席の上で落ちた。そして大怪我をした。その土地の金光様の、新たかな事を聞いて御縁を頂いたのが初めてで、そして不思議に命拾いのおかげを頂いて助かったと云うのが、中村屋又は成駒屋さん達の、金光様の信心始めと言われております。
 皆様も御承知でしょうけれども、中村時蔵さん一家です。いわゆる中村錦之助、万屋錦之助。錦之助の一家は、朝の御神前の間から柏手の音から中村屋の家の朝が始まるといわれる位に熱心なんです。成駒屋さん雁次郎さん大阪の。扇雀なんか。それから東京の中村歌衛門さんなんかは、全部お道の信者さんです。中村歌衛門なんかは、楽屋入りする時は、御神米を鏡台の前に必ず立てててありますね写真で見ると。
 そして御祈念をしなければ舞台に立たないと言う位に熱心な信者が、歌舞伎俳優の中に出来たのも、駒之助さんの入信が動機だと云われて居る位に、その後の熱心な信心をなさった。そして役者稼業を止められて、御本部に家を建てられた。そして四神様のお傍近い御用をなさった。四神様がお隠れになるまで、おかげを頂かれて四神様の書かれたものやら、残されたものはこの駒之助さんの家に、大部分があったと云われる位に、ご寵愛を一身に受けられる程しのおかげを受けられた。
 四神様が亡くなられてその後に、小倉の桂先生が、ある時御本部参拝をなさった。そして丁度中村駒之助さんの、当時は中村でなくて岡本と言う。岡本駒之助さんの家の前を通られる時に、神様から「中村駒之助、徳切れ」と。「徳をつけてやれ」という意味の事を、お知らせを頂かれて、入って面接をされた。それこそ紫檀黒檀の家具、紫檀の茶箪笥を背中にして、大きな長火鉢の前でそれこそ、この世で極楽ちゃこの様な姿じゃなかろうかと言う様な、玉露をすすりながら応対をされた。
 それで桂先生が「岡本さん、あなたは本当に、あれ程しの四神様のご寵愛を受けられて、このおかげを受けられたのですから、あんたはどうでも一つ、お道の教師になって、布教にでも出なさったらどうですか。」と。「人間はもう徳切れということが一番怖い。徳が切れることが一番怖い。」と言うて奨められたけれども、言を左右にして、言う事を聞かれなかったと言う事です。
 丁度三代金光様がまだお若い。それでお広前に出られて、金光様にご挨拶が終わってから、金光様世の中には後から、津波なら津波の様な災難がかかって来よる。家も蔵も財産も、一遍に一呑みにしようとする様な災難が掛って来ておるのですけれども、それを知らずに、安気安穏で暮しておる氏子がおりますなぁと云うて仰った所が、「あぁあれか。あれはもう駄目じゃ」と仰ったそうです金光様が。それからまたたく間に、東京の預金をしておられる銀行が倒れましてね。
 そして一ぺんに潰れたんです。それで当時朝鮮の釜山です。改めてお道の教師の資格を頂いておられるから、布教に出ろうと言うて、手配をなさったけども、何からかにまでが手違い間違いで、とうとう布教に出られなくなられた。そして間ものう亡くなられたという話が残っております。だから神様に頂いたおかげ、本当に神様のおかげというものは、これは神様のおかげに依らない事ですけれども、大きな財産家が崩れたり倒れたりする時には、アッという間でしょうが。
 例えば私の今朝のお夢の中でもです。私が全財産を持っておるその鞄を持って、まぁこん位な事と言う様な気持ちで旅に出ておる。しかもそこは外国で言葉も通じない様な所。所がその汽車の中に全財産を忘れてしまってる。アッという間にその全財産がなくなってしまってる。さあどうしようかと言うとるけれども、言葉も通じない他国のことではあるし、どうにも仕様がない。淋しい事だなとこう思うておる。
 そこでです。私は今日幹三郎の例を取りましたが、私どもが信心を進めて行っておるのに、午前中これだけ立派な信心が出来ておるから、午後はこんくらいの事はよかよかと認めて下さるだろうと言った様な時に、信心の心を向けて徳を受けておりましてもその徳が削っていく無くなっていく。そしてそれまでには随分とお気付けを頂くでしょう。一回二回じゃないでしょう。幹三郎が本当に謙虚な信心を、心掛けの上にも私共の子供の中では、一番そんな感じです。
 どの子よりも横着さが無いような感じです。けれども横寝をしながら物を足で扱っておる。楽寝をしながら。それが昨日話をしておる、本当にこの寒修行に当って、怠慢と言う事を特に心掛けさせて頂いとるけれども、一日を締めくくってみると、あれも怠慢であった、あれも御無礼であったと気がつく事ばっかりだ。気が付いておる。そして翌る日もまた、それを繰り返しておる。これはちょうど横寝でこうやって、足の先で物を扱って居る様な事ではなかろうか。
 だからそれがいけんと云うのじゃない。人間ですから生身を持っておるのですから、ここで是が御無礼な事だ、相済まん事だと言う事であったならばです。まず詫びれと私は言うておる。こういう信心が積り積もって行くうちにです、いつの間にか徳切れがする。いつの間にか大きなおかげを落とす。空洞の様なものがいつの間にか出来ておる。だから折角信心をさせて頂いておるから、それがマイナスになる様な事であってはいけませんが、マイナスになる様な事が無いかと。
 実際自分で気が付いてから、これはマイナスと言う事が分かっておる事がある。そういう時には生身を持っておる私供の事ですから、詫びれとこう言うのです。昨日私日田の綾部さんのお取り次ぎをさせて頂いた。丁度大分の国東の方へ縁についておられる娘さんが、お産をして帰っておられた。それで愈々昨日一昨日帰られた。それこそこちらへ帰られてから、あっちこっちからの、お祝いだけでも大した事であった。車三台で帰られた。いうならそれだけの赤ちゃんが、お土産を持って帰ったわけである。
 帰る事が分かっているから家では赤飯炊いて、尾頭つきの一つも準備して待っておられるものとばっかり思うて帰った。所が肝心要のお母さんがおられなかった。それであたた、その家のお掃除からしなければならなかった。もうその時です本当にこう言う様な侮辱があるだろうか。こう言う様な無礼があるだろうか。許されない。以前の私ならそういう思いで、それこそカンカンになる様な思いをしたのでしょうけれどもです。
 ただ婿の健一郎さんは本当にバチが悪い、お母さんに対しても肩身が狭い思いをしただろうと、婿が思うたと言うておられます。で一緒に行ってくれた、運転される方とも一緒にこれは何か神様の御都合に違いはないで、帰って参りました。そしたら帰ってから自分で思うこと。本当に信心をさせて頂いて、云うならば私は丸亀の主人だ、私は日田の綾部だという、ひとつのプライドと云うものが、段々無くなって影をひそめて、云うならば屑の子われと言う様な自覚が、段々出来てきた所からです。
 本当に私はそれを聞きながら申しました事でした。世の中には問題を愈々問題にして行く生き方と、問題をその時点で問題ではない生き方と、大変な違いだなぁと言うて話した事でした。そういう事を問題にして、愈々問題が問題になる。そこに人間の難儀がある。その時点で、問題は消えておる。いや自分自身が謙虚に、信心とは自分を知る事だ、自分が分かる事だと。自分という者を身高う思わずに、自分の身というものを、低い所に置いた時にです。相手の事も分かる。
 相手の御都合であると言う事も感じると同時にです。自分という者を、愈々低い所に置いて見る時にです。それでむしろ信心の有り難さと云うものが、信心の光というものが、そういう真っ暗い思いをするような時、突き落されたような思いをする時に、日頃の信心の光がパアーッと明るうなる。だからひとっつも暗い思いをしとらん。腹が立っとらん。相手を責める心など、サラサラない。ただ婿の健一郎さんが、こういう場合お母さん、どうもすみませんと。
 本当にそれこそ大威張りで、綺麗な赤ちゃんを連れて帰って、それを喜んで貰えるとばかり思うておって、そして尾頭付きのひとつも準備してある、お赤飯も炊いてあったりしてあるとばかり思うておった。所が肝心要のお母さんが居られない。行ってから返って家の大掃除をせんならと言う様な事であった。勿論それから本宅の方へ行かれて、本宅の方では、大変な喜びで迎えられたと言う様な話をなさっておられましたがです。
 私供が問題を問題に愈々、こんがらがった問題にしていく、これは金光様の信心しておってもです。問題を問題にしてしまう生き方しか知らない人がありますけれども、合楽で信心の稽古をさせて頂く人達は、問題が一つも問題じゃないどころか、そういうまぁ軽蔑されたと致しましょうか。私をどうして軽蔑するかじゃなくて、軽蔑されたその時点にです、自分というものの身高い思い、自らのプライドが邪魔をしておるから、傷つけられたとあり、また自分を軽く見られたと言った様な感じがするのです。
 本当言うたら、是が自分の本当の姿だと言う様な頂き方をする時です。それが腹が立つとか、問題だけではなくてです。自分という云うものをギリギリの所に置いて、またそこから新たな神様へ向かう心が生まれるです。是は不思議なごと有り難い事。是が信心です。わが心が神に向かうというのを、今日はただ有り難い勿体無いで神様へドンドンお参りをする。心を神様金光様、金光様と云うておると言う事だけが、神様へ向かうのでなくてです。自分の信心がいつの間にか怠慢になっていきよる。
 自分でも気がついておる。そういう時にです。痛い思いをしてハッと気づかせて頂くと言う事も有り難いけれどもです。そこにはそれが怠慢である事が分かっておるならば、怠慢をせんようにしたらよいけれども、さぁそこは怠慢と分かりながら自分の体がもてんちゅう時もある。そういう時には、詫びるという信心があるじゃないですか。云うなら神様、もう眠り倒れるごと睡うございます。
 ちょっと横にならせて下さい。そしてまた一時の御祈念には目覚ましのおかげを下さいと何時たような、子が親に頼むような心の状態で、神様へ向こうて行く。それが神に向かう。そういう意味のことを今日は聞いて頂いた。わが心が神に向かう。そしていうなら蹴落とされた様な感じの時です。そこに自分の本当の正体を見る。自分の本当の姿を見る。そしてそれが却って、有り難い。日頃の信心がパッとそこに光を灯すようなおかげを頂きたい。そういう光が集まって世界が闇なりではなくて。
 世間が光の世の中と言う事になっていくのじゃないでしょうか。自分の家庭の中にです、嫁があぁ云うた。婆さんがこげん云わっしやった。そういう問題にして家の中は真っ黒うなっとる。成程云われた、その時点にです。「はぁお母さん、済みません」と言う様な心が起きてです。自分というものを低い所に置く時にです。そこから新たな信心を感ずる。はぁ私の、いうなら自分の信心の原点に還る。おかげおかげと自分の信心で頂いておるように思うておったおかげがです。
 そこに暗い所に突き落される様な思いをした所から、はぁ自分の信心の正体はここにあったと、自分の正体を知る。だからむしろ有り難い。それを私は信心の光だというふうに思うのです。中村駒之助さんの例を取りました。本当に無い命を助けて頂く程しのおかげを頂いた。それから、熱心に、それこそ自分の仕事は投げ打って、神様の御用に使うて頂いた。しかも金光様のお傍近にお使いまわしを頂いて、それこそ一も中村二も中村と云われる程しの寵愛を受けられた程しの方でもです。
 だから信心の油断が出来るとお陰を落すと言う事。そして私が今日お夢を頂いた、汽車の中の様なです。アッという間に、自分の持っておる全てを汽車の中に置いて降りらねばならないような結果になる。もう信心のおかげというものは何かは、その様に実はもろいものです。それに信心の力徳というもが、裏付けがあってこそ、有り難いのであってそれが無くなった時には。
 アッという間に元の木阿弥になっておかなきゃならんです。慢心が無いようにあってあるのが慢心。慢心気と呵責の無い者は無いと云われる位。誉められるとなる程そりゃ、おだてられたり、本当に誉めござるばってん、その誉められた事だけは忘れられん。そうかと思うて今度は又、反対に悪く言われたり、自分を軽蔑された事もまた忘れられん。それが人間。信心というのは誉められる時程、用心せよと云われておる。
 そして自分を軽う見られた、軽蔑されたと言う様な、そこん所をです。日頃の信心に物を言わせるというか、為には日頃自分という者をギリギリ見極めとかなきゃならない。それがその位方しかない自分であるという時点からです。信心ちゃ有り難い事だ。そこから又新たな信心の進め方、又新たな信心の光を受けることが出来る。カンテラに油がいっぱいあっても、芯がなからなければ火は灯らない。
 その芯というのはです。今日はおかげを受けて神様へ向けておる時だけが、一心を立てておる時だけが信ではなくて、それとは反対に真っ暗い、普通でいうなら思いをするような時にです。芯が立っておると、暗い思いをせんで済むだけではなくて、そこから新たな信心の展開が頂けることになるのです。今日はそういう意味で、この二十一節を聞いて頂きました。
   どうぞ。